桜川雪は、静かな決意とともに玄関のドアを閉めた。黒塗りの高級車が家の前に停まっているのを、息子の隆と嫁の博美が呆然と見つめていた。
「お迎えにあがりました」
スーツ姿の男が深く頭を下げた時、博美の顔色は一気に青ざめた。見慣れぬその車と男の姿に、彼らが想像すらしなかった「現実」が姿を現したのだ。
だがここに至るまでには、長く、そして苦い時間があった。
雪は三ヶ月前から、息子夫婦との同居生活に徐々に違和感を感じ始めていた。
「またその話?昨日も聞いたよ」
新聞を広げたままの隆の言葉に、嫁の博美はうすら笑いを浮かべた。
「同じことばかり繰り返すって、やっぱり年のせいなんでしょうね」
日々の食事の席で、雪は家族との会話に入ることすら難しくなっていた。自分が"家族"ではなく、"お荷物"として扱われていることを、雪は静かに記録し続けた。
市役所で35年間働いた彼女の手帳には、日々の小さな侮辱や無視が丁寧に綴られていた。
「その服、いつも同じですね」
「もうお年寄りの料理は、若い人には合わないんですよ」
「この醤油、味が薄いですね。やっぱり特売品って……」
直接的ではない言葉の数々。しかし、それは雪の心を鋭く傷つけていた。
だが、彼女はただの年金生活者ではなかった。
住宅ローンの頭金300万円、車のローン150万円、生活費50万円、さらに10回にもわたる20万円の送金。総額900万円。雪はこれまで、黙って息子夫婦を経済的に支えてきたのだ。
にもかかわらず、彼女の存在は「邪魔者」として扱われ、ついには博美の口から冷たく告げられた。
「もうここには住めませんよね?明日までに出ていってください」
雪はその言葉に、ただ一言こう答えた。
「わかったわ。出ていくわ」
その声は驚くほど穏やかだった。だが、胸の奥で何かが切れる音が確かにした。
その夜、雪は健二に電話をかけた。
——あの話、お願いできるかしら。
健二は、雪の兄の息子。かつての同僚たちと共に、雪の境遇を案じていた数少ない身内だった。彼の協力を得て、雪はすでに準備を進めていたのだ。
翌朝、車が到着し、丁寧に迎えに現れた健二を見て、博美は顔を強張らせた。
「これは……どういうことですか?」
「由紀さん、お引越しのお手伝いに来ました」
雪はゆっくりと振り返ると、手にした分厚いファイルを差し出した。
「これは、今まであなたたちに援助してきた記録よ」
ページには金額と日付がびっしりと書き込まれていた。住宅ローン、車のローン、生活費、そして見えない支援の数々。雪がどれだけ息子夫婦を支えてきたか、そのすべてがそこにあった。
「あなたたちは、私を貧しい年寄りだと思っていたようだけど、本当は逆だったの」
言葉を失う博美と隆。
「私は、家族を支えるつもりだった。でも、家族として扱われなかった。だからもう、支える理由はないわ」
雪はそう言って家を出た。健二の車に乗り込み、振り返らなかった。
——残されたのは、後悔と戸惑いだけだった。
息子と嫁は、その日を境に初めて「何を失ったのか」を知ることになる。
だが、それはもう遅すぎた。
静かに走り出す車の中で、雪は手帳の最後のページにこう記した。
「10月4日。私は、私の人生を取り戻した」
そして、窓の外に広がる朝の光を見つめながら、静かに微笑んだ。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=DzvAghTFrAc,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]